昭和44年02月25日 朝の御理解



 御理解 第42節
 「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」

 そこからおかげが受けられる、これほど信心するのにと。今日はそういうところに一つ焦点をおいて、お話を「     」進めて行きたい。これほどという事は、どれほどの事であろうかと。これほど信心するのに。例えばひと月に一回お参りをいたしましても、ね、例えば朝晩金光様を拝みよる、一生懸命拝みよる。教会にお参りをするのは月に一回だけれども、毎日一生懸命拝みよる。
 もう一日がだって拝まない事はない、頼まない事はない、お礼を申し上げん事はない。それでやっぱし、一端の信心かとこう、思うておる人もありますよね。毎日毎日拝みよるけれども、という、それもやはり、まあこれを「    」かも知れない。かと思うとまた、それとは反対に、ね、朝の御祈念にもお参りをする、色んな御祈念にもお参りをする。もうあそこは金光様にかかっちゃるとじゃろうかと。
 まあ知らん者が見たら、聞いたら思うかも知れんほどに一生懸命、信心をしておっても、ね、これほどという事にはならん。あそこはこう、これほどという事は、月に一回を参ってもこれほどと言えるかと思うと、日参りをお参りさせて頂きよっても、これほどとは言えない。けれども、ここんところにです、最後に、。これはまだ信心が足らんからじゃと思うて、一心に信心をしていけば、そこからおかげが受けられる。
 金光様の御信心はどのような中からでも、おかげが受けられる。そして、いわば信心が出けなければ、出けなければじゃない。毎日参らなければおかげが受けられるという事でもなからなければ、毎日参ったからと言うて、おかげの受けられるという事でもない、という事でもない。ね、問題はそこからが大事なのであるね。お互いの信心の進めというものが、ね、その度に。
 そこから信心が本筋になって行くと言うか、本格的になって行くと言うか、ね。そこに、もうちょっとでも自分の信心が人身する。ね、少しでもそこから、これは、はあ自分の信心が足りぬからじゃと、いわば悟らせてもろうて。はあこげな事じゃいかんと思うて、一段と、まあ一段と言うよりも、ちょこっとでも前進したら、そこからおかげが受けられると仰るから、ね。
 そこからおかげが受けられる、そこからの信心の展開。ただそれでおかげを受けられたからと言うてです、なら今度それでまた良いと言うのでもない。ね、そこからそこからと信心が新しい信心に進んで行かなきゃならんもんですよね。まあこのこれほどと言うか、ね。これほど働いてもお金が残らんってのはそういう訳だろう。これほど働きよるのに、お金が残らんていうのはどういう訳だろうと、例えば致しましょうかね。
 それこそ働けど働けど我暮らし楽にならざれ、という。そういう時にいわば啄木じゃないけれども、ジッと手を見ると言うて手を見とった「   」そのね、やはり自分の信心は見てみなけりゃいけん。きっと自分の信心の在り方について考えて見なければいけない。だから我暮らし楽にならざりと言うのではなくてね、ジッと手を見とっただけではですいつまでも我暮らし楽にならない。けれども自分の信心を見てみる。ね、
 そしてそこからの信心の展開を願っていく。なるほどこれではおかげが受けられないはずだと。ね、これではおかげが受けられないはずだと分からせて頂いたら、そこから新しい信心の展開がなされて行く時にそこから、ね、一部でもそこんところを進ませて頂く事によってです、ね。少しは楽になってくるまた少しは楽になってくる、と言うようにです段々おかげを頂いて行く、というのでなからなければならない、ね。
 熊という動物は、非常に魚とりの名人と言われております。例えば「なんじ」岩に出といてからジッと魚が寄ってくるのを待ってる訳なんです。中に入ってその、釣ったりすくったりはしきらんけれどもね。けれどもあの大きな手でその、魚が寄ってきたところをボーンとこう叩くんだそうですよ。ね、ですからその手に叩かれたのがパーッとこう下りてくる。それをこう取る訳ですね。
 まあそれを、笹に刺すかどうかは、それは知りませんけれども。よくその、映画なんかで見ますと、笹なんかに刺して、それを山に持って帰るんですね。ところが確かに取ったはずのね、その魚が山に来た時には、その一匹も残ってなかったとか。なかなか知恵があってそこまではやるけれども、魚とりは名人だけれども、ね、約まりのところは全然残っていなかった。約まりが出来とる、「しめくくり?」が出けておる。
 本当はその、締めくくりという事はどういうような事だろう。これほど一生懸命魚をとっておって、これだけの事をしておるのに、どうして山に着いた時にはないかと。お米を買いに行ったと、確かに一等のお米を買うて来た。帰って図って見たところが、8升しかなかった。これは向こうの米屋が間違うとるじゃろうと。向こうの米屋が間違えとるじゃろうというように思わずにね、それは、それを思う前に、一遍自分の持って行っとった袋を調べてみるべきだと私は思うです。
 なるほど、ここにこげな穴がほげとるけん、こっからずっと漏っとるもんじゃから、これなら一升二升すぐ漏るたいという事が分かる。分かるからそこんところをふせなければいけん。またその破れた米、袋を持って行って米買いに言ったって、だんだん破れは大きくなるばっかり、ね。神様がもう間違いなしに必ずおかげを下さりよるのだけれどもです、実際受けて帰ってみたところが。
 とんを頂いて来たハズなつが、「     」しかなかった、「七  」しかなかったと言うのなら、まず私は自分の心を本気で見極めなければいけない。ね、そこのところの焦点をです、私お道の信心は、実意丁寧神信心という事にならなければならないと思う、ね。実意丁寧神信心でなからなければいけない。ね、神信心は出けておるけれども、神信心は出けておるけれども、言うなら先ほどの言葉じゃないけれども。
 日参り夜参りが出けておるにもかかわらず、教会のこと、神様のことと言うたら、これほど一生懸命ならせて頂いておるのにもかかわらず、おかげが受けられていないとするならです、ね。いわゆる神信心は出けとる、そのようにして神信心は一生懸命だけれども、実意がないのだ、丁寧がないのだと、私知らにゃいけん。お道の信心の生命とさえ言われるのが、実意丁寧神信心。
 生命と言うのは命、いわゆる一番大事なものと言われておる。ね、その一番大事なものをおろそかにするのですから、おかげを頂ききらんとですよね。自分の実意たるものを一遍検討して見なければいけない。自分の丁寧さというものが、ね、本気で私はその丁寧さに取り組んで行かなければいけない。そして神信心である。だから、どちらがどうであってもいけない。
 いかに神信心が出けても実意丁寧にかけておる所から、おかげはそこから漏れてしまう。かと言うて実意丁寧をいかに致しました所で神信心がなかった、是又同じ事是が相まって行かなければいけない実意丁寧神信心。というそのお道の信心で一番大事だと言われるそれが私はかげておる事がですまあ一番大きな、これ程信心するのにどうしてこの様な事がという事になってくる元はそこにあるのじゃなかろうか。
 だから本当に一つ実意丁・・・例えばね今年そのよりその明るくとか、よりにこやかにという事を、簡単なつだけでも取り組んで見ると、やっぱなかなか難しい。ね、難しいから楽しみがある、難しいから稽古する一つの楽しみがあるのですよ。ね、見やすかったら信心の楽しみはない。ね、お互い本気で自分が実意丁寧神信心になろうと思うた事が果たしてあるだろうか。先ずその辺から思うてみなきゃいけません。
 自分が実意丁寧神信心をかいでおりながらです、ね、神信心はっていうのは出けておっても、実意丁寧をかいでおきながらです、そしてどうして折角取った魚が抜けてしもうたじゃろうか、どうしてこの一斗買うた筈の米が八升しかなかじゃろうかと、こう言うておる様な馬鹿げた事はないと私は思う。ね、本気で自分が実意になろう丁寧な人にならせて貰おうと、願い祈りそしてそうあろうと思うた事が果たしてあるだろうか。
 まあよかよかと、もうよかよか衆で行きよりゃせんか。そこはずるう生きよりゃせんか。実意とは反対のような事ではないか、丁寧さなんか微塵もない。これには成程おかげが受けられん。そのそこん所に、成程が付く様にならなきゃいけんのに、これ程信心するとにどうしてじゃろうかねと、言うておったんじゃ駄目。だからそこんところがです、なら一部でも分からせて貰う。
 一厘でも分からせてもろうて、そこからです本気で実意丁寧神信心と、本気で実意にならせて頂こうおかげでこうやって、なら皆さんしておられたとは言わば神信心は出けておる訳でしょうが。しかも毎日この朝の寒いのに朝は早うから出て来るほどしの信心が出けておるのでしょうが。神信心は出けておるのですから、是になら実意と丁寧がそれに伴わなければ、金光様の御信心の、いわば在り方という事になって来ない。
 親子が夫婦が、これはまいっちょ本気で実意丁寧を、頂き直さないかんのだと。これは本気で実意丁寧のところに信心を取り組ませてもらおうじゃないかと、家族中の者が話し合い、そのかげておる実意に、またはその丁寧な、のお粗末なのに気が付かせてもろうて、そこを修繕して行くというような、私生き方からですね。どうしてと言わんで済むようなおかげが受けられると、ね。そこんところからがですね。
 これはまあだ、信心が足りぬからじゃと一心に信心して行けばそこからおかげが受けられると仰る。そういう気になればそこからおかげが受けられるのですよ。この方の行は家業の行だからと言うて、家業が一生懸命出来る。家業の行と言うて、家業を一生懸命する事が行じゃない。人が「とも」しかしきらんとも二十もするという事が行じゃなく、ほおあの人は二十の行が出けたという事ではない。
 家業の行というのは、その家業そのものにどれほど実意丁寧が込められたかという事が修行なんだ、家業の行なんだ。それは、あれがしておる事は、あの人は「二十こっちはともで?」あってもです、そのともの中に実意丁寧が込められておりゃです、その実意丁寧の信心によって二十働いた者よりも、三十働いた者よりもおかげを受けられるのがお道の信心なんです。
 だから、バタバタばっかりするという事が能じゃない事が分かる。実意丁寧神信心と言うのは、ね、自分が商売なら商売、お百姓ならお百姓。はあ今日も一日お使い回しを頂いて有り難うございましたと、言えれるところまでの実意丁寧神信心が出来なきゃいけん、実意丁寧がなさなきゃいけん。農家の方が例えば農具を、農具をね、使わせてもろうた、一日働かせて頂いた。
 ポンと蔵の中にその、その泥のついた農具を投げこむごたる風じゃ、最後の締めくくりがいけんところが分かるですね。例え遅うなっても、ね。例えばこの三本桑が、なら三本桑がのおかげで今日は一日働きが出けたのであるから、三本桑を大事にするのじゃない、三本桑を通して神様有り難うございましたと、磨き上げて直すぐらいな信心が出けなければ、いや家業が出けなければ、私は本当の家業じゃないと思うな。
 実意所謂家業の行と仰る行にはならんと思う、いくら働いたっちゃ今日の42節を頂いておりますと、金光様の信心の幅の広さと言うかね、おかげを受ける事ですよおかげを受ける事の幅の広さというものを感じます。ね、もうそれはちょっと神様に心を向ける。向けたばってんおかげを例えば受けられないなら、はあ是は自分がこん位な信心じゃと、こう思うて一部でも進めて行きゃ、そこからここ最後に書いちゃる。ね、
 そこからおかげが受けられると仰る。かと言うて、昼なら昼参りをお参りしよるからと言うてです、ね。それこそ参っても参っても、働けども働けども我暮らし楽にならざれと言うならばです、その暮らし楽にならざるという事を、他所の方へども、他の方へその原因を置くような事では何時まで経ってもおかげは受けられん。自分の信心の締めくくりが悪いこと。破れとるとこを伏せようともしない、その怠慢さ。
 そこから折角のおかげが漏れて行きよる。成程神信心は一生懸命出来よるけれども、実意丁寧が出来よらん所にです、おかげが漏れて行きよるんだと分からせて頂いたら、どうでもこれは実意丁寧、そして神信心が出来なければならない事が分かります。昨夜「中島?」、大和さんところの、毎年謝恩祭がございます。とても有り難いと思いますね。もう本当に年々さいさい、そのお祭りの内容と言うか、ね、
 やはり大和さんの信心が進展して行かれ、進んで行かれるに従って、いわば本当なものにいわゆる本格的、本格信心の本格派とでも申しましょうか。まあ言うなら実意丁寧、それに神信心が出来ていきよるという感じですね。先生、以前は本当にあの、お宅祭りを仕えて頂くという事が、前の日一日、一生懸命その、お祭りをさせてもらやですね、もうそれで立派に出けよった、と思いよった。
 ところが先生、今度のお宅祭りは三日前から家族中の者が「はかっとる」。と言うてその、お祭りの前の、ね、昨日、昨日の朝方お届けなさる。お届けされるのに、三日かかっておりますけれどもです、もう本当に行き届かん事でございますと。もうどれだけしても、どれだけしても、思うてもあそこがかげとった、ここもまだ出来じゃったと思うてです、相済まん事で不行き届きの事でございますけれども、どうぞ明日は有り難いお祭りを仕えられますようにと言うてお届けをされた。
 ですから私共が本気で実意になろう、丁寧にさせて頂こうと言うてもです、それはまた厳密にいよいよ頂いて見ると足りない事に驚きます。所謂そこから本当な事が出てくるのですね。尽くしても尽くしてもまた尽くしても、尽くし足りんが真なりけりと言われる。だからそこんところがです、努めさせて頂いても努めさせて頂いても出来ない、そこんところがです、私は今日のこれほどという事だとこう思うんです。
 お互いが所謂、こう思うて見るとこれほどの信心がと思うようでありますけれども、なるほどこれほどの信心が出来ておりますけれども、それでなおかつ、おかげが受けられんなら、そのこれほど、まだ信心が足りぬからだというところに気が付かにゃいけんと思う。しかもその信心と言うのは、お参り「行った数を?」多くするとか、火の行水の行をするとか、という事も有り難かろう。
 けれども、何を言うても、私はお道の信心は神信心の前に、実意丁寧が伴わなければ、つかなければ、おかげにならない事を肝に命じて、ね。自分の実意さ加減、丁寧さ加減というものと、それに神信心が伴うて、初めて私はおかげが受けられる。それとてもです、ね、大和さんじゃないけれども、本当にあのお祭りを拝ませて頂いて、もう本当に行き届いた事だと思いました。
 それでもなら大和さんは、不行き届きな事でとこれは謙遜な気持ちだけじゃなかろう、やはりそれを感じられるだろうと。そこに大和さんの信心があると私は思うのです。そこんところは、だから本当に限りがないものですけれども、お互いが限りのないおかげを目指させて頂くのでございますから、信心もやはり限りがあってはならん、あろう良かろうはずがない。ね、
 これほどの信心、これほど信心するのに、どうしてこういう事がという事はです、ね、これほど一生懸命働きよるのにお金が残らんち言うのはどういう訳じゃろうかと、もう言うておる時にはもう貴方の信心は止まっておるんだと。自分の信心はもうそれで止まっとる、これじゃおかげにならんです、ね。これはまだ、自分の信心が足りぬからじゃと気付かせてもらって、その足りぬところをです。
 神信心の出来とるけん、今度はなら実意のところを、丁寧のところをです、よりもっと、なら実意丁寧さがない訳じゃなかろうけれど、そこんところをより、ね、実意に、より丁寧に、ね、いわば水も漏らさん信心を目指させて頂いてそこからです、ね、ガッチリと受けとめて行けれれるおかげ、ね。一心に信心して行けばそこから「    」、ね、今度そこからの信心。ですから、ね、
 今日はね、そこからの信心というところを、一つ大事にして頂きたいですね。それから、これほどという事には、もう大変な幅があるという事です。もう切りがないほどに、ね。今信心を初めた人でも、20年信心を続けておる人でもです、ね。おかげという事においては変わりはない、ね。ただ、その人の心の中にある、ね、そこからの信心がなされなかったら、ね、そこからの展開。
 信心の展開がなされなかったら、もう貴方の信心は止まっておるのであるから、おかげにはならんと、20年信心をしよっても。今始めたばっかりでもです、そこからの信心を大事にして行くならば、そこからおかげが受けられるのだと。そういうお道であり、そういう信心なのだ。お道の信心のおかげを頂いて行くという上に一番大切なこと。それは、いわゆる実意丁寧と神信心が、ね、その気で出来なければならないということを分からせてもらわなきゃならんと思いますね、
   どうぞ。